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高知県 パゴダ会



「パゴダ」復刊によせて


 過ぐる大戦は、日本民族にとって、有史以来の大改革をもたらした。戦争に狂奔した時期はさておき、終戦からの五十年と云う長い歳月にも、実に、色々の事が起こり、種々の推移があり、めまぐるしい変遷があった。
 戦後、幾歳月かの抑留生活を経て、敗惨の身を託ちつつ復員したがやがて、焦土と化した祖国の復興に元気をとりもどして来た。
 その間にも、戦争を懐かしみ、辛苦を共にした戦友と集い合い、又、多くの帰らざる友の事を思い悔み、追慕した、このような戦友会は、毎年のように続けられた。又、その時は、遺族の方を招いて、共に慰霊祭を行い英霊を供養した。
 こうして、私達は高知パゴダ会を結成した。それは、昭和五十二年六月で、多くの英霊にとっては三十三回忌に当たる時期であった。
 以来、この慰霊顕彰をつづけておる理である。
 昭和五十七年には、念願の高知パゴダも完成された。又、ビルマへの戦跡巡拝も殆んど毎年のように行われ、昨年で十五回を数えるに至った。
 会結成と同時に、機関誌「パゴダ」を発刊した。
 「パゴダ」は、会の運営のため、又、会員融和のため大いに役立ったと思われる。
 この「パゴダ」が、昭和五十八年で休刊となり、十一年もの空白時期が過ぎて失った。
 今回、戦後五十年を記念し、「パゴダ」が復刊される事は誠に喜しく意義あることである。



「パゴダ」発刊経過


発刊年月 摘要
昭和52 高知県ビルマ方面戦没者名簿連載開始
遺骨収集報告連載開始
52 高知パコダ会(高知県ビルマ英霊顕彰会)結成(52年6月)
52 12 第1回ビルマ戦跡巡拝団派遣(52年11月)
53 厚生省派遣ビルマ戦跡巡拝団参加(53年3月)
53 10 高知パコダ建設基金募集開始
54 第2回ビルマ・タイ戦跡巡拝団派遣(54年2月)
54 厚生省派遣ビルマ戦跡巡拝団報告集
54 10 高知県ビルマ方面戦友名簿掲載
55 第3回ビルマ戦跡巡拝団派遣(55年3月)
10 55 遺骨収集報告(アラカンの夢)完了
パゴダ建設地・吸江寺と決定
11 55 12 パコダ早期建設を決議
12 56 12 第4回ビルマ戦跡巡拝団派遣(56年4月)
13 57 11 第5回ビルマ戦跡巡拝団派遣(57年2月)
高知平和パゴダ落成(57年11月)
14 58 第6回ビルマ戦跡巡拝団派遣(58年3月)
高知パコダ落慶法要(58年4月)
パコダ本尊仏延命地蔵菩薩遷座式




機関紙「パゴダ」16号 より
機関紙「パゴダ」16号巻頭 (目次) (頁)
巻頭言 町田速雄 2
反対と謝罪の国会決議に反対大キャンペーン 町田速雄 4
戦場の星座  一軍医の戦歴(1) 深田 勉 7
第十七回ミャンマー慰霊巡拝団に参加して 畠山正則 20
加藤大隊長の罷免理由判明 柳場 豊 28
軍旗と旗手 松田清一 30
ジャパン ポンジー ミャンマーを行く(2) 山崎幸温 34
ビルマの三三○日  こんな戦争もあった(1) 溝渕克己 37
蒼茫マンダレー街道 西村主計曹長 49
インパールを夢見て(2) 金沢時郎 57
私のビルマ転進作戦 福生慈誠 59
ビルマ戦敗走の記 尾崎晴光 66
ビルマ再訪(後編) 中山 操 70
「お便り」 高市章三 89
はるかなり ビルマ 横田扶三代 90
編集後記   108
(巻頭言)
 昨年、終戦五十周年、高知パゴダ会「秋の大祭」の祭文を、巻頭文として掲げます。

   祭文

 爽涼の秋深く、沈思、祈念にふさわしい季節となりました。
 ここ、吾等が霊地五台山、高知平和パゴダに、遺族、戦友相集い、恒例の秋の大祭を催し
ます。
 思い起こせば、日本がポツダム宣言を受託し、天皇の聖断により、戦争を停止してから半
世紀になります。
 この五十年間の歳月の中で、世界の歴史は劇的な大変化を遂げつつあります。
 戦後の日本に於ては、敗戦というショックと戦争に対する増悪感から、軍事について語る
ことはタブーとされてきました。日本がどのようにして戦争をし、破れたかという戦争の歴
史について、本格的に取り組むこともないまま五十年を経てしまったのであります。戦後は
戦時中の皇国史観への反揆もあり、極東国際軍事裁判による史観と、マルクス史観による教
育が主流となりました。その結果、誠に残念ながら、特に戦後育ちの日本人の多くは、歴史
の真実を充分に学ぶことが出来ずに今日に至っています。
 この教育によって、戦後の日本国民は、日本のために戦って死んでいった父祖や、先輩を
まつることを躊躇したり、無関心だったりするような風潮になってしまっています。
 どんなに世界各国が、人類全部が戦争が嫌だ、悪いことだと思ったり言ったりしても、現
に軍隊のない独立国家はありません。無防備で国内が乱れていれば、必ずといってよい程、
他国の干渉を受け、国内の紛争が起こったり、他国間の戦争に巻き込まれたりしています。
 大東亜戦争を『侵略戦争』と言うものがあります。『侵略戦争』の定義については、東京
裁判の判決文によれば、その要点は次の二点にあります。
  (1)挑発されない戦争
  (2)動機が占拠である戦争
 しかし、大東亜戦争開戦前の日本は、いわゆるABCD諸国から猛烈な経済制裁を受けて
いた。『日本の指導者は挑発されている』と痛感していたのであります。
 『動機』について言えば、いわゆる南方各地は連合諸国によって『占拠』されていて、各
国軍がその地に展開していたので攻撃したのであり、その本来の動機は『占拠』ではなくて、
後に遂次実行したように、『解放』であったのである。
 戦争の歴史的意義、とくに歴史的結果は、長期的展望の中で省察する必要がある。
 共産主義よりの脅威という日本の警告を、ルーズベルトは無視したが、戦争終結後、たち
まちにした米ソ対立し冷戦が発生した。
 ルーズベルトは見ることはならなかったが『教育的である』と言った中国共産党は瞬時に
して中国全土を掌握し、アメリカは朝鮮戦争を戦い、更にベトナムで敗戦することになった。
 日本の力を軽視し、日本の参戦に拍手したチャーチルは、戦勝の後アジアに於けるイギリ
ス植民地の相次ぐ独立を見ることになった。
 日本は、アジアに於ける白人の帝国主義的支配を打破するとともにその根底にあった白人
優越の思想にも挑戦したのである。
 戦勝は、戦史すべてを美化し正当化する。
 敗戦は、戦史すべてに汚名を与える。
 しかし、多くの日本青年は、祖国防衛と東亜解放の旗の下に、勇戦敢闘したのである。彼
等の多くが、戦野にその屍をさらしたが、彼等は『侵略戦争』を戦ったのではなく、『東洋
平和』のために散華したのであります。
 英霊の皆様、安らかにお眠り下さい。

   平成七年十一月二日

                       高知パゴダ会会長 町田速雄



「パゴダだより」 「パゴダだより」
平成21年4月「パゴダだより」 より
平成22年4月「パゴダだより」 より





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